卑弥呼の最後は、以下の4つの説が考えられています。
- 寿命
- 他殺
- 戦死
- ショック死
この中で、最も有力なのが寿命による老衰です。
卑弥呼のことが書かれてある当時の文献に中国の歴史書である「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」があります。
ここには、「卑弥呼以死」(ひみこすでに死す)とは、書かれているのですが、死因や没年に関しては全く書かれていません。
「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の最晩年は、邪馬台国と狗奴国の対立が背景にあります。
卑弥呼はこの対立を解決するため、魏の支援を求め、張政という使者が派遣されました。
しかし、張政が到着した時点で卑弥呼が存命だったかは不明です。
中国の別の歴史書「北史」では、卑弥呼の死が240年代後半、具体的には247年か248年と記されており、これが彼女の没年とされています。
この時期、邪馬台国と狗奴国の間の争いはまだ続いており、卑弥呼はこの混沌とした状況の中で亡くなったと考えられています。
そこで、この記事では、卑弥呼の最後として考えられている、「寿命、他殺、戦死、ショック死」の4つの説について解説していきます。
目次
卑弥呼の最後は寿命?老衰による自然死
卑弥呼が高齢であったことは『魏志倭人伝』にも記されており、彼女が自然死した可能性が指摘されています。
彼女の治世は約60年に及び、240年代には70代以上であったと推測されます。
彼女の死後、大規模な墓が築かれたことから、彼女が人々に深く敬愛されていたことが伺えます。
卑弥呼の最後は他殺だった!?政治的な暗殺の説も!
一方で、卑弥呼が狗奴国との対立により政治的な失敗を犯し、暗殺されたという説もあります。
魏の使者張政が邪馬台国に派遣された際、卑弥呼の代わりに難升米に詔書を渡したことから、卑弥呼が失脚し、暗殺された可能性が指摘されています。
卑弥呼の最後は戦死?
邪馬台国と狗奴国の戦いが続いていたことから、卑弥呼が戦死したという説もあります。
彼女自身が戦場に立ったかは不明ですが、狗奴国の攻撃により命を落とした可能性が考えられます。
卑弥呼の最後はショック死?霊力が喪失した!?
日食などの自然現象が卑弥呼の霊力の喪失と関連づけられ、そのショックで急死したという説もあります。
『日本書紀』に登場するヤマトトトヒモモソヒメノミコトと卑弥呼を同一視する見解もあり、神話的な要素が絡む死因として考えられています。
まとめ「卑弥呼の死とその影響」
卑弥呼の死は、邪馬台国にとって大きな転換点であったと考えられます。
彼女の死により国内の政治状況が変化し、後継者問題や国内の混乱が生じた可能性があります。
また、彼女の死は、日本古代史における女性の地位や神職としての役割に関する重要な事例として、後世に大きな影響を与えました。
卑弥呼の死に関する諸説は、古代日本の歴史や文化に対する理解を深める上で重要な要素となっています。
彼女の生涯や死についての詳細は未だに多くの謎に包まれており、今後の研究によって新たな発見が期待されています。